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七転八倒の転職と新規事業の立ち上げ記

文:D-JEDI理事 金川雄策

ドキュメンタリーは今、かつてないほどに大きな可能性を秘めている。高画質カメラの小型低価格化が進み、取材から撮影、編集まで個人の制作者がこなすことも不可能ではないフィールドになりつつある。かつてのロバート・キャパや沢田教一ら、フォトグラファー個人の視点で撮影した写真が世界に衝撃を与えたように、今日のドキュメンタリーでは、個人の視点で作られた映像が世界を変える力を持っている。さらに世界では、ドキュメンタリーが、ハリウッド大作にも比肩するエンターテイメント性を帯び始めている。

ドキュメンタリー・マスタークラス

今月末に出版する初めての著書「ドキュメンタリー・マスタークラス」の序文で、私はこう書きました。この大きなうねりとともに数年間を過ごしてきた私の実感です。
 
新卒で入社した新聞社は、デジタル化の大波が打ち寄せ、徐々に侵食されていました。中でも写真部(のちに映像報道部)という私の職場はデジタルシフトによって常に変化を迫られてきたように感じます。

■カメラの進化が環境も自分も変えた

デジタルカメラの背面モニターを見れば、すぐに撮影結果が確認できるようになり、さらに現像作業やスキャン作業が必要なくなって送稿プロセスも簡略化。毎年毎年、破竹の勢いでカメラの性能は向上していきました。

「カメラよ、もう賢くなるな」と思うほど、オートフォーカスや連写の性能が上がり、それに伴って、カメラマンの評価軸が変わっていきました。「押せば写る時代に、何を写すのか」と常に自問自答を続けました。

特に2008年のCANON EOS 5D Mark2の登場は、画期的でした。一眼レフカメラで動画が撮影できるようになり、DSLR革命とも言われるこのたった一つの機能追加で、映像の世界をひっくり返すほどのインパクトを持ちました。

それまで1000万円もするようなカメラでしか撮影できなかったクオリティの高い映像が、20万-30万円のカメラでも撮影できるようになりました。私もこのカメラを手に、動画を撮り始めました。

「初めまして」と挨拶した次の瞬間に、写真撮影を始めるような取材に自分自身が疲れ果てていたこと。そして、しっかりと被写体と向き合い、紡いでいくドキュメンタリーこそ、より本質を映し出せると感じたからです。速報にはないより深い側面を伝えることができる。そう信じて、1年間休職し、ニューヨークに留学してドキュメンタリーフィルムメイキングを学びました。

帰国して新聞社に復職し、仕事で動画を制作することもありましたが、もっとドキュメンタリーの地平を広げたいと、会社を飛び出すことに決めました。世界を自分の足で踏みしめ、自分の目で現実を見て撮影する。新聞社の写真記者という仕事は、刺激に溢れる天職とも思えた仕事ですが、ドキュメンタリー一本でやりたいという自分のワガママを胸に、挑戦を決意しました。5年前のことです。

■転職後、期待からの暗転

インターネット上に、ドキュメンタリー映像を発表できる場所を作る!

そういう意気込みで乗り込んだIT企業でしたが、心躍る期待が打ち砕かれるのに、さほど時間はかかりませんでした。

入社初日、新聞社時代の癖で、紙のメモ帳を持っていきましたが、紙にメモしている人など誰一人として見当たりません。隣の人ともチャットで話す文化。オンラインのクラウド上にあらゆる情報をまとめられ、MTGもそれを元に進めていく。パワーポイントを使ったプレゼンでの情報共有ーー。

デジタルツールは使いこなせて当たり前。文化が180度違い、右も左もわからない中でストレスは最高潮。36歳での初めての転職に、周囲から「あなたは何ができるの?何か特別なスキルがあるからここにいるのでしょう」という目線を被害妄想的にバシバシ感じ、全身に蕁麻疹がでる有り様でした。

仕事は、ドキュメンタリーなどの映像発信プラットフォームをゼロから立ち上げるという難題。当時、社内の仲間たちも懐疑的だったと思います。「ドキュメンタリーなんてやっても誰も見ない」「もっとフィクションの短編をやるべきだ」。いろんな話がミーティングでごった返すカオスの中で、なんとか話をまとめて前に進む日々でした。

とにかくたくさんの制作者に会い、ビジョンを語って作品を制作してもらう。ドキュメンタリーの未来を語り、大風呂敷を広げたものの、作品制作もチーム運営も次々と課題が噴出し、失敗の連続でした。

■学びと実践で打開

仕事ではなかなか結果が出ず、転職なんてしなければ良かったと思ったことは1度や2度ではありません。前職での私は、現場を渡り歩いてきたカメラマン。これといったビジネススキルは持ち合わせておらず、あらゆる知見が足りませんでした。

激しいプレッシャーに襲われる中、やれることはなんでもしようと1年間の社内教育プログラムに参加させてもらったり、2019年からは経営大学院の門をたたき、単科授業を受け始めたりしました。仕事ができない分、愚直に働き続け、新たに学んだ使えそうな手法を端から実践する繰り返し。

結果の出ない暗くて長いトンネルの中を走り続ける感覚は、今振り返っても、本当に2度と戻りたくない、辛い日々でしかありませんでした。

あの辛さから逃れるために、あらゆる努力ができたとも言えますが、新聞社に在職していたころから、問題意識をもって自分をもっと変えるべきだったと思います。先の見えないこの時代に生きていくためには、常に自分を変化させていくというマインドと学びの場が必要だと痛感しました。

■成功に不可欠な戦略的思考

そんなこんなでようやく形になってきたクリエイターの映像発信プラットフォームですが、当初なかなか結果が出なかったのは、ルールを作ることに躊躇ったからだと感じています。

ルールを作ることは、一部の人には窮屈に思えますが、少ない人数で運営し、質を向上していくには、最低限必要なものでした。

ここはどういう場なのか?はっきりと説明するためには、どこを既存のメディアと差別化するのか?

表現方法については、自由度を残す。一方で、10分と尺を制限することで、テレビ番組化や映画化など長尺に発展する可能性を残し、プラットフォームを企画の出発点として使ってもらおうなどと戦略的に考えるようになりました。トライ&エラーを繰り返すうちに、どんどん素晴らしい作品が出始め、仲間達の努力のかいもあってクオリティを安定させることができました。

ドキュメンタリーが人気のジャンルになっていくためには、何をすればよいのか?クリエイターのスキルはどうしてもばらつきがあるため、もっと全体のスキルを底上げすることができないかと思い始めたのが、この頃です。

■勉強会と雑誌の連載を始める

数ヶ月に1度の頻度で勉強会を開催し始め、さまざまな講師に依頼してクリエイターに学びの場を提供してきました。勉強会のあとに、クリエイター同士でも交流できる場所を作り、横のつながりを作って刺激を受け合ってもらう。他人の作品制作から学ぶことが、実に多いのです。

また、DOCS for SDGsという特集企画を立ち上げ、クリエイター3人を集め、ともに意見をし合いながら、制作していく機会を新たに設けました。あの人はなぜあんなものづくりができるのか?と考えることから思考は始まり、自分を改善していく。教わることとともに、ともに成長できる仲間が必要だと感じています。

そうした問題意識を持っていたところ、雑誌の編集者からドキュメンタリーに関する連載をしてみないかとお声がけいただきました。ドキュメンタリーに関する教科書的なものがほとんどないことから、私はそうしたものを作りたいと企画を持ち込みました。トップランナー12名の方々に、制作の各フェーズについてお話をお伺いし、連載をまとめ、Tipsを加えた書籍「ドキュメンタリー・マスタークラス」が、8月31日に出版されます。

D-JEDIを立ち上げたいと思ったのは、さらにドキュメンタリー制作の輪を広げたいと感じたからです。

■D-JEDIと映像、ドキュメンタリー

ドキュメンタリーは、多様な社会に生きる人たちを映し、人の痛みや努力を知ることで、他者を理解し、分断を繋ぎうるメディアだと思っています。

速報が飛び交うニュースの中で、向き直って画面を覗き込み、被写体の声や表情、背景、環境音、音楽、テロップなどあらゆる表現を五感で感じ、考えを促すドキュメンタリーは、いまやジャーナリズムを補完する重要な表現手法です。

多くの人に、映像での発信にチャレンジしてもらうことを通じて、日本にドキュメンタリーの文化が根付いて欲しい。そう願い、皆さんと新しい一歩を踏み出したいと思っています。

みんなにも読んでほしいですか?

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