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新聞記者からのキャリア構築 どうやって社内転職からGoogle、その先に至ったか

文:D-JEDI理事 古田大輔

新聞記者からアメリカのネットメディアの日本版創刊編集長になり、独立して、Googleで働いて、また独立する。

珍しい経歴なので、よく聞かれます。なんで転職したんですか?どうしてGoogleへ?

話が長くなるので普段はざっくり説明するんですが、記者にとってだけでなく、転職を考える人や、組織内でのキャリアに悩む人のために、個人的な経験を書いてみます。

スキルについては、D-JEDI理事の熊田安伸さんがこんな記事を書いてます。

私は主に考え方や心の持ちようを語ります。「精神論かよ」と思った人、いるでしょ?

これは大事です。パーパス経営やカルチャーフィットという言葉を聞いたことがある人もいるでしょう。BuzzFeed Japan創刊編集長として多数の採用に関わり、自分自身も転職を複数回経験して実感してますが、スキルと並んで重視されます。

全ての職場に、固有の文化や働き方があります。新卒採用・終身雇用が大半という日本型組織では、上司や先輩からOJTで脈々と受け継がれていきますが、中途採用や転職が当たり前のスタートアップやグローバルな企業は違います。

組織のパーパス(存在意義)、ミッション(使命)、バリュー(価値基準)などが明文化され、それに密接に絡んだ戦略があり、尊重することを求められます。そういった座標軸がないと、転職者が多い組織は空中分解してしまいがちだからです。

組織の座標軸に対し、自分は何がしたいのか、何が出来るのか。それが自分のキャリアを考える出発点になります。


失敗してきたから見つけられた「天職」

理想のキャリアを図にまとめると、こうなります。キャリアをどう作るかを考えるときに、世界的によく用いられる図を日本語にしたものです。

欧米だと、中心の部分をIkigaiと呼んで「Ikigai Chart(生きがいの図)」などと呼ばれるんですが、ちょっと違う。好きで、得意で、求められて、稼げること(大儲けしなくてもいいけど、カネがないと持続可能性がない)。この4つが揃うのは、生きがいというより「天職」だと思います。

私は社会に出て20年。今の働き方が天職だと感じています。何度も挫折し、自分を見つめる機会を持てたことが良かったんだと思います。

Failure(失敗)と呼ばれるNikeのCMがあります。NBAのスーパースター、マイケル・ジョーダンが2度目の現役時代の1997年に出演し、静かにこう語るCMです。

私はこれまでに、9000本以上のシュートを外した。
私はこれまでに、300試合近く負けた。
26回、仲間から試合を決める最後のシュートを託され、外した。
私は人生において、何度も何度も失敗を繰り返してきた。
それこそが、私が成功する理由だ。

これは、失敗や挫折をどう成長に結びつけたかについての話です。

仕事ができなかったからこそ、自分の役割を考えた

私がキャリアについて真剣に考え始めたのは、今から10年ほど前。朝日新聞のバンコク特派員からシンガポール支局長に異動したころです。

記者になりたくて新聞社に入り、8年目から希望通りにアジアの特派員になれたのは良かったのですが、思うように記事が書けませんでした。日本にいた頃は興味関心が赴くままに書いていたのですが、新聞社の国際面は狭く、世界中の特派員たちが紙面を奪いあう場所。その中で自分は何を書くべきか悩んでいました。

タイ・カンボジア国境にて

もう一つの悩みは、記事への反響の薄さでした。ネットの隆盛とともに、紙面の影響力は日々弱まっているように感じていました。

自分はこの先も記者を続けていけるのか。何のためにこの仕事をしているのか。悶々としつつ多くの人に会い、次の取材の糸口を探していました。

現地で出会う人の多くは転職を経験していました。アジア太平洋の人材の集積地であるシンガポールは、それだけ競争も激しく、自分のキャリアのことを真剣に考え、自ら起業している人もたくさんいました。

記者としての自分に悩んでいるのなら、いっそ離れるのも良いんじゃないか。自分はそもそも何がしたくて、何が得意なのか、今、世の中に求められているのは何なのか。それまで記者が天職と信じ込んでいたために無視してきた問いを、ようやく真剣に考え始めました。

思いついたのが、デジタル編集者への「社内転職」です。大きい組織の魅力はこれ。社内にたくさんの職種があること。

もともと、5歳上の兄がパソコン好きだったこともあり、小学1年で最初に触ったパソコンがシャープX1。ハードもソフトも怒涛の勢いで進化し、「あんなこといいな、できたらいいな」を次々と叶えるのがテクノロジーと魅了されていました。

学生時代にはインターネットに親しみながら、新聞記者の道を選んだのは、世界中の現場で取材し、世の中の課題やそれを解決するために地道に取り組む人たちのことを伝えたかったから。2001年に就職活動をした頃は、そのための近道が新聞記者でした。

でも、真剣に考えてみて気づきました。私は現場で取材することが大好きですが、それ以上に好きなのは、世の中の課題解決についてみんなで考えること。そのためには「自分が取材すること」だけでなく「伝えること」が重要で、インターネットを活用するしかないと。

新聞社の花形は記者で、編集局を離れるのは左遷のように考える上司や先輩たちはたくさんいました。でも、特に気になりませんでした。自分がやりたいことだったし、世の中に求められているし、10年間国内外の現場で取材した経験を、自分がもともと好きなインターネットやテクノロジーの世界で活用するのは、大きな武器になると思ったからです。

知らないから、取材する 成功よりも失敗から得た気づき

2013年4月に異動した先は東京のデジタル編集部。朝日新聞デジタルの編集が主な役割でした。1日3交代の勤務で、政治部や社会部や国際報道部など出稿部と呼ばれる編集局の記者たちが出してきた記事にデジタル用の見出しをつけ、配信する。出番の間は休む間もなく流れ作業でひたすら記事を出していく、思った以上に忙しい職場でした。

ただし、社会部や国際報道部にいた頃と違って、事件による急な呼び出しみたいなことが殆どない。これは新しいことを勉強するには好都合でした。ネット好きとは言え、デジタルメディアの世界については素人同然。デジタル版に独自記事を出したいと理由をつけて、シフト制の編集勤務が終わると、デジタルメディアの専門家たちに会いに行き、自分が知りたいこと(かつ世の中の人も知りたいこと)を取材し、記事を書きました。

こういうとき、記者って最高だと思います。自分の好奇心を仕事に反映できるし、世の中の反響もあるし、それが自分のキャリアにも役立つ。しかも、新聞紙と違ってデジタルは紙幅の制約がない。デジタル技術を使って、紙面では不可能な手法を実践できる。

動画やアニメーション、データビジュアライズ、インタラクティブなコンテンツ。自分が記事を書くだけじゃなくて、記者やビデオグラファーの取材を活用したり、データアナリストやウェブデザイナーに協力してもらったり。

1年後には、社内で新しいデジタル企画が始まる際には「古田にもやらせよう」と声をかけてもらえるようになりました。

関わった企画の中で、特に思い出深いものが3つあります。

一つは浅田真央さんのソチ五輪での演技を、動画、アニメーション、連続写真などで包括的に伝えた「ラストダンス」です。

これは当時、ニューヨーク・タイムズが公開してピュリッツァー賞をとり、世界的に話題となった「Snow Fall」というコンテンツの表現技法から学んだものです。ラストダンスは公開直後から圧倒的な勢いでシェアされ、このコンテンツを朝日新聞が作ったということ自体が他メディアのニュースになるほど話題になりました。

2つ目は、その半年後に公開した「対立の海」。これは私が特派員をしていた東南アジアへの中国の進出をテーマにした思い入れの強いコンテンツでした。

ラストダンスと同様にアニメーションや動画などを盛り込み、技術やデザイン的にさらに洗練され、中国の海洋進出の凄まじさがよく伝わる上に、中国の艦船が追いかけてくる緊迫した映像も含む優れたコンテンツでした。
ところが、こちらはほとんど話題にならず、シェアも伸びませんでした。これだけのコンテンツを作っても、国際政治の話題は読まれないのかとひどく落ち込みました(いまでは、どうしたら良かったのか理解できます。それは別の機会に)。

3つ目が「データジャーナリズム・ハッカソン」です。データ分析や可視化でデジタル報道をもっと進化させたい。でも、自分には技術やセンスが足りないし、朝日新聞社内にもそのノウハウがない。そこで社外からエンジニアやデザイナーを招待し、朝日新聞記者と総勢70人で8チームに分かれ、3日間でデータ・ジャーナリズムのコンテンツをモックアップまで作り上げる。

欧米などで始まっていた取り組みでしたが、日本では初。ちょうど、ラストダンスの制作とイベントがかぶったために、ほぼ不眠不休で運営に当たりましたが、新しいアイデアや技術がどんどん出てくるので、興奮で疲れを感じないほど盛り上がりました。

インターネットメディアはまだまだ規模が小さいです。大きな組織だと、いろんなチームと協力して大規模な企画が出来る。小回りが利く小さな組織と、それぞれの良さがあります。

これだけ色々と挑戦させてもらって、当時の上司や同僚のみなさんには心から感謝しています。それでも、失敗や成功を繰り返しているうちに、もっと自由に新しいことをしてみたいという気持ちが高まってきました。

「ゼロから何かを作り上げるのは最高にエキサイティングだ」

2015年当時、私は新聞社13年目で37歳。デジタル編集部は3年目でした。仕事は楽しいし、やりがいはある。けれど、次の目標が見えなくなっていました。シンガポール時代に現場の新聞「紙」記者としての役割に限界を感じ、デジタル編集者に転身し、充実はしている。

自分が何がやりたいかをもう一度見つめ直すと、「伝える」の次に「世の中を良くしていきたい、少なくとも、悪いところはなくしていきたい」ということに行き着きました。

課題解決型報道をやりたい、ファクトチェックをやりたいなど、いろんな企画書を書きました。当時の朝日新聞は2014年にいわゆる吉田証言、吉田調書、そして、池上コラム掲載見合わせ問題があり、改革に向けた提言が社内で求められていました。私自身もその中で声をあげていましたが、新しい動きが始まるには、まだ時間がかかる状況でした。

そんなときに声をかけてきたのがBuzzFeedです。

ソーシャルメディアを活用して短期間で驚異的な成長を遂げ、ミレニアル世代に最も支持されるメディア。かつ、ピュリッツァー賞受賞者など、腕利きのジャーナリストを次々と引き抜いてニュース部門にも力を入れるBuzzFeedは世界のメディアウォッチャーの注目の的でした。

2014年6月に「米ニュース界の風雲児「バズフィード」日本上陸へ」(日経新聞)という記事を読み、BuzzFeed Japan初代編集長の人事を抜こうと考えました。その1ヶ月前に東洋経済オンラインの佐々木紀彦編集長がNewsPicksに移籍するというスクープを書いたので、編集長人事でもう一本いけるなと、いかにも記者っぽい計算をしてました。

知人からBuzzFeedの国際担当ヴァイス・プレジデントだったScott Lambを紹介してもらい、来日のたびに日本や世界のメディア状況について話をする仲に。BuzzFeedはなぜ急成長したのか、人はなぜ、コンテンツをシェアするのか。彼との議論で多くを学んでいたある日、「編集長をやる気はないか?」と聞かれました。

最初は断りました。マネジメント経験がほとんどない私に、編集長は無理だと思ったからです。まして、BuzzFeedはニュースだけじゃなく、エンターテイメントも網羅するメディア。「ニュースエディターなら引き受けたい」と答えました。

バーで向かい合って前のめりに口説いてきたScottの言葉は、はっきりと覚えています。

「誰でも何かを始めるときには、初めてだ。ゼロから何かを作り上げるのは最高にエキサイティングで楽しいよ」

これはアドバイスとして、みなさんに伝えたいです。転職でも、社内の新しい役職やプロジェクトでも「それは自分には無理だ」と思うことありますよね。でも、自分には無理だと思える挑戦だからこそ、必死に頑張るし、成長するし、達成していく感動があります

あのときに引き受けて本当に良かった。

CEOの面談を受けたのが2015年9月24日朝で直後に採用したいと正式な連絡があり、その日の午後に部長に辞めますと伝えました。後になって気づいたんですが、この段階ではまだBuzzFeedと契約書も交わしてないし、給料も決まってませんでしたw

各国の編集長たちと。20代の編集長もいました

CUNYからGoogle、そして、D-JEDIへ やりたいことを中心に考える

BuzzFeed時代に学んだことは、書ききれないほどあります。失敗と成功も山のようにありますし、挫折もありました。長くなるので、それについてはまた改めて別の機会に書きたいと思います(スキやコメントやシェアなどがたくさんあれば、後編にして書きますし、こんな記事もあります)。


長くなってきたので、この記事のテーマである、キャリアを作っていく中での心の持ちようについて最後にまとめますね。

私は3年半のBuzzFeed Japan創刊編集長を辞めて独立すると、2020年1月にニューヨーク市立大(CUNY)ジャーナリズムスクールの「News Innovation and Leadership」というプログラムの1期生になりました。

信頼性と収益性の2つの問題にぶつかっているニュース業界が生き延び、発展していくために何が必要かを体系的に学ぶためです。そこでの学びはここにも書きました。

ニューヨーク・タイムズのヴァイス・プレジデントやフィナンシャル・タイムズのマネージングエディター、南アフリカで成長する独立系スタートアップメディアのCEOなど錚々たる16人のメンバーで、日々のクラスは最高に刺激的でした(コロナで途中からオンラインのみになりましたが...)。

参加した世界のメディアの幹部たち。女性の方が多かったです

そして、2020年9月にはGoogleニュースラボのティーチングフェローに就任。Googleの中でもユニークなチームで、世界中のジャーナリストたちがフェローとなり、各国のニュース業界のイノベーションをサポートすることをミッションとしていました。

朝日新聞やBuzzFeedやCUNYでの経験がそのまま活かせる最高の職場でした(この経験もいずれ...)。

そして、デジタル・ジャーナリスト育成機構(D-JEDI)を作り、同時に再びメディアを作ろうと準備をしています。シリアル創刊編集長です。

結局のところ、私は自分がやりたいことをまず考え、その中で、今、社会が求めているものは何かを分析し、そのために必要なスキルを学ぶ。この順番をずっと貫いてきたし、そのきっかけは現場記者としての挫折で、そこからの社内転職でした。

こうやって文章にすると、まるで最初から理路整然とキャリアを作ってきたようにも見えますが、10年目まで何も考えていなかったし、何度も何度も失敗するからこそ学びを得て次のキャリアに活かすことができました。

今の報道業界を見ると、信頼性と収益性の危機の中で残念ながら自信を失っている人が多くいるように感じます。しかし、報道や情報を伝える、発信するという機能は社会にとって不可欠で、その中に私たちがやりたいこと、得意なことがあるはず。

組織の壁を超え、業界や職業の壁も越え、個人レベルで様々な知見を共有しあう場を、D-JEDIとして作っていきたいと思います。

(あ、お金についても書いてなかった。これまた機会を改めて書きたいと思います!)